高校生部門 最優秀賞

改めて、考える時

熊本県立八代工業高等学校 3年 梅川 勉

私は昨年、突然父を亡くした。入院していたわけでもなく、もちろん、命が脅かされる疾患を持っていたわけでもなかった。しかし、ある日のこと、それは本当に突然訪れたのだ。誰かが作り上げたドラマか映画の中でしか見たことのない出来事が、自分の身に降りかかった時、うろたえ、躊躇し、立ちすくんだ。そして同時に、思考は完全に停止し、何も考えられなくなったことを、今でも鮮明に覚えている。

大切な人を失う悲しみ、ぶつけようもない恨みや憎しみ、そして日に日に積もる喪失感。この状況に遭遇したことで、これまで、他人事としてしか捉えていなかった「北朝鮮による拉致被害者家族の感情」に、一つの実感として触れたようだった。

「北朝鮮拉致被害者」と聞いて、真っ先に思い浮かぶのは、横田めぐみさんだ。一九七七年、十一月十五日、拉致被害にあい、その後、幾度となく行われた北朝鮮への要請や会談があって尚、いまだに帰還はかなっていない。これまでのニュースの多くは、被害者家族の方々が「悲痛な叫びと諦めない決意」を語って終わる。私が小学生の頃から何度も見てきた、変わらない光景だった。

それからさらに月日を経て、私はこの作文を書いている。その中で、私の頭の中の大部分を占めているのは、「なぜ、いまだに問題が解決しないか?」ということだった。

例えば、学校の授業の中でも、拉致被害について考える機会は、何度もあった。おそらく、世代を問わず、皆がそうだろう。しかし、与えられる情報は、毎回同じ資料に、再現映像、受け取る側も、進展のない現実に、半ば落胆し、半ば諦めという同じ感想にならざるをえない。この事実を忘れないことは大事であるが、果たして、忘れないということだけですませてよいのだろうか。

拉致問題の解決を掲げる政治家に投票することや、署名活動に参加することなど、これらの活動にも、どこか他人事である。「大変だな」と感想を抱きつつも、署名活動で街頭に立つ方々を、横目で見ながら冷淡に通り過ぎる自分。そこには「アリが制御不能な象を倒せるはずがない」という、どこか冷めた打算的な自分が見え隠れする。いつしか他人に関心を払わなくなった日本人の感性は、現代における拉致被害に対する関心の低さにつながってはいないだろうか。事実、めぐみさんの父親である、横田滋さんの訃報は、コロナの報道に埋め尽くされてしまっていた。

これから、国際情勢が変化する中で、問題解決に向けた進展があるかもしれない。結局、私を含めた国民の意識自体が変わらない限り、本質的な問題は何も解決しないのではないだろうか。改めて、考える時だと思う。そこからしか何も始まらない。